竹内まりやの『駅』より中森明菜の『駅』がしっくりくる理由
先日、竹内まりやの『駅』よりも中森明菜の『駅』のほうがしっくりくるという感想を書いた(竹内まりやの物まねをせず「駅」を唄った中森明菜)。
それはなぜだろうか、ふと考えてみた。
中森明菜の『駅』のほうが今の時代に合っているからだと思う。
竹内まりやの『駅』と中森明菜の『駅』を聴き比べて勝手に思ったこと
中森明菜の『駅』は1986年に発表された。
中森明菜の『駅』は1986年発売のアルバム『CRIMSON』に収録されている。
1986年といえばバブル経済の真っ只中。
アルバム『CRIMSON』のディレクターによれば、アルバム『CRIMSON』の収録曲はニューヨークか日本でいえば東急東横線に住む20代のオフィスレディをイメージしたそうだ(CRIMSON (中森明菜のアルバム) – Wikipedia)。
竹内まりやは、バブル期の若いオフィスレディを中森明菜に投影して『駅』を作ったのだろう。有名歌手・中森明菜は最寄り駅まで電車で移動することはないから。
当時「オフィスレディ」というのは、会社に勤める事務職の女性を指すのが一般的だった。
オフィスレディは自立した「自分で稼ぐ」女性だったから、当時のオフィスレディには晴れ晴れしい未来が待っているように感じられた。
けれども実際はどうだろうか。
当時はまだ寿退社という慣習が残っていたから、オフィスレディのほとんどは20代のうちに寿退社を余儀なくされた。
そしてバブル期以降、総合職・一般職→正規雇用・非正規雇用という流れを経てコロナ禍があり、会社に勤める事務職の女性の多くは非正規雇用になった。
現在はオフィスレディ(OL)という言葉自体がほぼ「死語」になった。
竹内まりやが描いた「オフィスレディ」自体が存在しなくなった。
だから今、竹内まりやの『駅』を聴いてもなんだかピンと来ない。竹内まりやの『駅』は、今はほとんど実在しない人物をイメージした唄だからだ。
対照的に、中森明菜の『駅』では、職種とか仕事内容とか住む場所とか、そんなものは超越している。
中森明菜自身は自らをオフィスレディに投影させて唄う、なんてことはしない。
中森明菜の『駅』あくまでも「昔の恋を思い出すひとりの女性」が唄う歌なのだ。
だからこそ、中森明菜の『駅』は現代に聴いても違和感がないのだと思う。
そんなことを勝手に思った。